2010年12月31日

ラオスのムアンシンにて

 ラオス北部ルアンプラバンからピックアップトラックに乗って、砂利道を揺られながら3時間程でムアンシンという町に叔父と行ってきた。叔父が文明に毒されていない少数民族の生活を見てみたいとのことで、そこまで行けば叔父が期待しているような村があるだろうとのことでそこへ行くことを決めた。ムアンシンの町から郊外に出かけ、ある村にたどりついた。そこで知り合った気さくな若者が自分の家に案内してくれた。案内してくれた家は電気水道のない茅葺きの家だった。家の中はびっくりするくらいものがなく、がらんとしていた。囲炉裏の周りに木製の椅子(椅子と言ってもお風呂にあるような小さなもの)があり、そこで休むように促された。そしてびっくりするくらいまずいお米(失礼)を食べるように勧めてくれた。食べないと失礼だと考え、叔父と二人で無理矢理そのお米をほうばった。贅沢な日本人から見てお粗末な食べ物でも、現地の人にとっては貴重な食料であろうから。
 ムアンシンという町は、高い山に囲まれた盆地にあり、日の出が遅く日の入りが早かった。明確な時間は定かでないが日の出午前8時日の入り午後4時といった感じだった記憶がある。その上、昼間はとても暑く夜はセーターが必要なくらい寒くなる。寝袋にくるまり震えながら寝た記憶がある。少数民族の家にはお昼に行ったが、夜の生活を思い浮かべた。電気がないこの家では囲炉裏の周りに家族皆が集い、一つの炎を見ながら時間を過ごしているのだろうと。過酷な自然環境の中で生きるには皆が助け合い寄り添って生きなくてはならないのだ。今の日本は物質的に豊かになったが、代わりに失ったものもあると思う。核家族化が進み、また各人が夜には個室にこもる。子供はゲームに没頭。そして親を殺す子供や子供を虐待する親も出現。一方物質的には豊かではないが、この村では皆が助け合い生きていることだろう。「幸せとは何なのだろう」と考えされられた一日だった。  


Posted by ジパング at 01:27Comments(0)東南アジア

2010年12月17日

私の東南アジア史観3

 「日本」「タイ」「ブータン」。植民地時代そして二度の世界大戦を通じ、西欧列強に食い物にされてきたアジアにあって、独立を保持した希少な3ヵ国である。この場では、ブータンの事例は置いておき、日本とタイの事例について考察してみる。独立を保ったという事実は、ある意味結果論であり不毛な考察かもしれない。しかしこの2ヶ国の独立保持を決定づけた要因は全く異質といってよい。
 人の人生を決定づける要因は、「才能」「努力」「運」だと言われる。私はここにもう一つ「バランス感覚」を加えたい。国を動かすのはいつの時代も人である。「才能」「努力」「運」そして「バランス感覚」、この四つのキーワードをもって、以下に日本とタイを考察してみようと思う。
日本は明治以降、富国強兵と殖産興業を合言葉に近代国家建設の道を邁進した。日本がこれを成し遂げたのは、ある程度の「才能」と多大な「努力」によってであった。天然資源が少なく、欧米諸国に出遅れた日本は、「頑張ろう」をかけ声にただ走ってきたのである。その「努力」に「運」がついてきたので、国力を伸ばすことができた。しかし「バランス感覚」を欠いていたため、明治・大正で蓄積した国の富を、太平洋戦争の敗戦をもって全て喪失したのである。戦後の奇跡的復興も同じく、ある程度の「才能」と多大な「努力」、それに付随した「運」により成し遂げている。
 一方、タイは、中国文明とインド文明という二つの巨大文明に挟まれ、自己の「才能」や「努力」など知れているということを肌を持って知っていた。むしろその中でいかに生きるべきかという「バランス感覚」を磨いてきた。これは島国である日本が大いに欠いている能力だ。第二次大戦中、タイは日本の同盟国であった。しかしロシアの対日宣戦布告・満州進出を機に、日本へ宣戦布告し連合国側についたのだ。タイは「バランス感覚」と「運」で敗戦国の立場を逃れた。天皇万歳・大東亜共亜圏を唱え、闇雲に突っ走っていた日本とは対照的で、柔軟かつ鮮やかな身の処し方であったと言える。戦後もまた、この「バランス感覚」と「運」をもって、外国の援助・投資をうまく受け入れながら「東南アジアの優等生」としての現在の地位を確立している。
 以上のように、日本とタイの独立保持は、結果論では似て見えても、その進退を決定付けた要因においては全く異なっている。この事実を理解しておくことは、日タイ相互理解のための重要な鍵であると私は考える。  


Posted by ジパング at 11:19Comments(0)東南アジア

2010年12月17日

私の東南アジア史観2

 「私の東南アジア観」を書いてから5年。この間、私は、タイ国駐在・留学、ラオス・ベトナム・ミャンマー・マレーシア・シンガポール・インドネシア・フィリピンの視察周遊を経験し、東南アジア観に変化があった。
以前、私は東南アジア理解のキーワードとして「文明の三原色」、すなわち①シナ文明色、②インド文明色、③西欧文明色を提唱し、これらの混ざり具合を見ることが、東南アジア理解の鍵だと述べた。また、タイ、マレーシア、シンガポールは、「文明の三原色」が比較的バランスよく混合された地域であると考え、タイとマレーシア・シンガポールの違いについては、文明色の混ざり具合が異質であることに起因していると述べていた。
 しかし、5年の間に自らの説に釈然としないものを感じるようになり、その原因を突き詰めるうち、「文明の三原色」に含まれないもうひとつの「文明色」の存在を認めるに至った。「イスラム文明色」である。これを含めた「文明の四原色」でなくては、真に東南アジアを理解することはできない。ただ、「イスラム文明色」は他の三色に比べ特殊で、他との融合が難しい。マレーシア・シンガポール・ブルネイ・インドネシアには多くのムスリム(イスラム教徒)が存在する。タイ南部の一部にもムスリムが多く居住する地域があるが、その数は総人口のほんの5%程度にすぎない。これがマレーシア・シンガポール・ブルネイ・インドネシアがタイに比べ、文明融合が進んでいない原因ではないかと思われる。  


Posted by ジパング at 11:18Comments(0)東南アジア